読書ログ

【読書ログ2020 NO.1】はみだしの人類学 ともに生きる方法 松村圭一郎

なんとな〜く「文化人類学」ってものが2年くらい前から気になっていた。

 

たぶんサモアでホームステイしながら暮らしているときに、異国の文化や人の営みにすごく関心をもったことがきっかけだったように思う。

 

 

抜粋メモ

 

 人と関わり、ある集団に身をおくとき、そこに「つながり」が生まれます。ここではその「つながり」をひとまず「人と関係する」という意味で使います。この「つながり」には、ふたつの働きがあります。存在の輪郭を強化する働きと、反対にその輪郭が溶けるような働き。「ともに生きる方法」を考えるとき、この両方に目を向ける必要がある、というのが私の考えです。

存在の輪郭を強化する働き・・・「共感のつながり

存在の輪郭が溶けるような働き・・・「共鳴の繋がり

*くわしくは後ででてきます(たぶん)

 

「分断」はかならずしも「つながり」が失われた状態ではない。激しく対立し、分断しているように見えるのは、むしろ両者がつながっているからかもしれない。そう考えると、世の中が少し違って見えるはずです。

(中略)

つまり、対立や分断しているとされる両者は、互いにまったく相容れないと思う相手の存在を必要としている。その「つながり」の結果として対立や分断が可視化されている。そう言えるのです。

「愛の反対は無関心」っていうのとつながっている気がするなあ。

 

 

もし世界に日本人しかいなくなったら、「日本人」というカテゴリー(=容れ物)に意味はなくなります。「日本人」は「日本人ではない人たち」との関係においてはじめて「日本人」でいられるのです。

(中略)

集団と集団の境界をはさんだ「関係」が、その集団そのものをつくりだしていく。「つながり」によって集団間の差異がつくられ、集団内の一貫性が維持される。
ある輪郭をもった集団は単独では存在できません。別の集団との関係のなかで、その差異の対比のなかで、固有性をもつという確信が生まれ、それが集団の一体感を高める。それは、「わたし」が「他者」との交わりのなかで変化してもなお、「他者」との境界線をはさんで「わたし」であり続けるのと同じです。

納得。

境界をつくることによって「固有性」を得ようとしてしまうのはどうしてなんだろう?本能?

 

 

さまざまな人と出会い、いろんなものをやりとりした結果として、いまの「わたし」がいる。
その出会いの蓄積は、その人だけに固有なものです。だれ一人として、あなたと同じ人と同じように出会っている人はいません。「わたし」の固有性は、そうした他者との出会いの固有性のうえに成り立っている。
でもだからこそ、いまの「わたし」が不満な人は、それを悲観する必要もない。みんな気づかないうちにかつての「わたし」を捨て、こっそり他者からあらたな「わたし」を獲得しているのですから。

すごく好きな部分。

 

 

そもそも私たちは複数の「わたし」を生きています。

 

私たちは、つねに複数の役割をもって生きています。それは、だれと対面するかによって、「わたし」のあり方が変化しうることを意味します。

 

人前では期待される役を演じていて疲れる。家に独りでいるときの自分が気楽でいい。そう思う人もいるでしょう。でも、だれとも関係を結ばない「わたし」が、ほんとうの「わたし」と言えるのか、ちょっと考えてみてください。すべての演じるべき役を脱ぎ去ったあとに、演じない本当の「わたし」がいるのか。いたとしてそれにどんな意味があるのか。これは考えるに値する問いだと思います。

これ、大好きな短編小説「孫係」(西加奈子「おまじない」に収録)で紡がれているのと同じテーマだ。

 

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潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係に根差した「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引出される。
ここで重要なのは、他者によって引き出されるという点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にはあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくりだされ、同時にその輪郭から「はみだす」動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみだしながら、浸透しあう柔軟なもの。そうとらえると、少し気が楽になりませんか?

「わたし」のなかをどれだけ掘り下げても個性には到達できない。なるほど。

「膜」っていうイメージ、始め読んだときはわからなかったけど今ブログ書いててなんとなくわかってきた(読後のアウトプット大切だなあ)

 

 

「わたしたち」と「かれら」の境界線は、ひとつの固定したものではありません。イスラムを信仰している人のなかには男性もいれば、女性もいます。だとしたら「日本人」と「イスラム教徒」という線の引き方だけが唯一の境界ではありません。男性と女性という境界線を引けば、日本人の半分とイスラム教徒の半分は、同じ「仲間」になります。

(中略)

「宗教」や「国境」という線引きだけで私たちは「分断」されているわけではない。むしろ、その境界がひとつしかないとする前提こそが、深い「分断」があるかのようなイメージをつくりだしている。

そんなとき、異なる複数の境界線を引くことが既存の境界を乗り越えるために必要な想像力になります。だから「異文化理解」を考えたいのなら、ほんとうに「異文化」なのかどうか、どんな意味で「異文化」とされてきたのか、そこで引かれている境界線とそれに従って見いだされている差異そのものを疑うところからはじめないといけない。

(中略)

国や宗教の違い以外にも、私たちはさまざまに異なっている。

 

ふりかえってみれば、出会った人と複数のカテゴリーのなかで向き合う時間を重ねたことが大切だったように思います。私たちは、人と出会うとき、まず性別とか年齢とか、国籍とか、いろんなカテゴリーのなかからひとつを選んでその人のことを見定め、コミュニケーションの手がかりにします。

(中略)

でも、その特定のカテゴリー集合だけで人と関係していると、それ以外のつながりの可能性は閉ざされたままになる。

「線を引く」ということは仕方ない。ただそれが唯一無二だと思い込んでしまうのがよくない。

「今、どんな線引きで相手と対峙しているんだろう?」
↑大切な視点だなあ。常に心に持っておきたい問い。

 

 

周囲の変化に身体を開き、その外側に広がる差異に満ちた世界と交わりながら、みずからが変化することを楽しむ。いきあたりばったりの歩みのなかで「わたし」に起きる変化を肯定的にとらえる。そういう姿勢は、まさにさまざまに異なる他者とともに生きる方法です。そして、それは変化がいっそう激しくなるこれからの時代にこそ必要とされるのだと思います。

好きな部分その②。

・オープンさ
・しなやかさ
・更新性
とかが大切なのかもなぁ。

 

他者との境界に沿って、その差異を強調する「共感のつながり」は、「わたし」の存在の確かな手ごたえを与えてくれる大切な承認の機会です。がんばって目標を達成すると満足感が得られる。それを人からほめられると、うれしくなる。そんなポジティブな感情をもたらします。でも、そこには同時に異質なものや変化を拒む力も潜んでいる。異質なものは大切な「わたし」を脅かす存在であり、「わたし」が変えられてしまってはいけない、と。

(中略)

違いを拒まず、その違いとの交わりをみずからの可能性を広げるものとしてとらえる。するとひとつの固定したゴールを定めていないので、その違いを楽しむ余裕が生まれます。目標を達成できないと、ふつう「失敗」と見なされますが、人生の価値をはかるひとつの指標を定めない曲がりくねった線の上では、それは「失敗」ではなく、興味深い「変化」になります。困難や苦しみも人生の味わいになるかもしれません。

「わたし」や「わたしたち」が変化するからこそ、周囲の人や環境も、自分自身もあらたな目でとらえなおすことができる。脅威に感じられた差異が可能性としての差異に変わる。それこそが、さまざまな差異に囲まれ、差異への憎悪があふれるこの世界で、他者とともに生きていく方法なのではないか。それが、私が文化人類学を学ぶなかで手にした実感だったように思います。

変化し合うことが、共存していく方法なのではないか。素敵だ。

 

 

ひとこと

「異文化理解=国によって線引きされた生活習慣を知ること」なのかな?なんて浅はかに思ってたけど、ンなことはなかった。

・他者との「つながり」とは

・境界を引くとは

・共生とは

などなど。

肩肘の力を抜いて、人をもっと好きになる人生を歩むヒントを得られたような気がします。

 

おすすめ文献リストが載っていたので、気になるやつをポチろうかな。